ドナー体験記
亡くなった友人のお父さんが言ってくれた「今回のことは俺の誇りだ」
よしだパンチ(福島)
 わたしが骨髄バンクへドナー登録したきっかけは、母が「肺血栓塞栓症」という病気で5年間寝たきりとなり、会社を辞めてわたしが看病したことがあります。これといった治療法もなく、完治には心臓と肺の同時移植しかない状態でしたので、残念ながら闘病の後に母は他界してしまいましたが、そんな母の闘病中に病院の病棟で知り合った人達の中には数多くの血液難病と闘っている患者さん達がいました。
 自分に何ができる?何かできることがあるんじゃないか?と考えました。
 正直、わたしは医療の専門家ではないし、メンタル面でサポートしてあげられるほど人生経験も多くはありませんでしたから、何もできない。当時のわたしは20代前半でした。
 そんな時、病院の脇に献血車を見つけました。そして、これならできると思い、こんなことでしか応援できないけれど、それでも何もできないよりは素直に嬉かったものです。
 これは当時も今も変わりなく存在する問題ですが、わたしは母の脇で送った病棟生活で、不安定な供給の中で行われている輸血の現実を見ました。朝の回診で主治医が「今日は血小板輸血をしますねぇ」と言っていたのに、昼になり、夕方になり、そして消灯時間間際になり「今日は血液が届かなかったので、明日以降に輸血は延期ねぇ」と言われてしまう現実を何度も何度も見ました。輸血をすれば身体がとても楽になる患者さん達ですから、肉体的なダメージも相当なものでしょうが、精神的な落ち込みは見ていて残酷さを感じました。
 そんな時に献血バスを見かけたわけですから、わたしなりの応援ができたことは嬉しかったのでした。

 骨髄バンクの存在を知ったのは、友人(無ガンマグロブリン血症という難病で29歳で他界)が「俺の主治医が骨髄バンクの立ち上げで講演をするから一緒に聴きに行かない?」と誘ってくれたのがきっかけでした。
 わたしが骨髄バンクにドナー登録したのはそれから1年後でした。私が登録する前に友人は倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。

 ドナー登録はしたけれどなかなか3次検査(現・確認検査)のお呼びがなく、これは登録されているデータに不備があるのではないか?とか、結婚のために引越しをしたので住所が正しく変更になっていないのではないか?などと考えました。でも、年に2回送られてくる骨髄バンクニュースは間違いなく配達されていたので、とにかく知らせが来るのを待つのみでした。
 そしてやっと骨髄移植推進財団の名前の印刷された封書が届いた時、これは飛び上がって喜びました。しかしすぐに、適合する患者さんがいないほうが、つまり移植を必要とする患者さんがいないほうが良いのではないか、とも思いました。残念にも移植でしか救えない患者さんがわたしを必要としてくれた。不謹慎ながら喜んでしまったのです。
 正式に提供へのゴーサインが出され、これを聞きつけた仲間達が会を催してくれました。 この時催してもらった会でわたしはたくさんの愛と感動を周りのみんなから貰いましたが、亡くなった友人のお父さんが言ってくれた「お前のことは息子みたい思っているから、今回のことは俺の誇りだ」の言葉にボロボロボロボロと泣いてしまいました。日頃のお父さんは寡黙で、男は黙って酒を飲むタイプなので余計に泣けたのでした。

 3次検査後は妻も交えて最終同意をし、提供日の1ヶ月前に健康診断、2週間前に自己血採血300mlをし、いよいよ前日に入院。
 その日は9時に就寝。看護師さんは「眠れなかったら眠剤を出しますよ」と言ってくれましたが、前日までクタクタになるほど仕事をしていたので必要なし。というより、いつでもどこでも眠れるのはわたしの特技。スムーズに眠りに入り、翌朝は5時半に目覚めました。
 手術室へ行くためのストレッチャーに移乗したのは6時少し前。(わたしの頃はストレッチャーでの手術室入室でしたが、現在この病院では歩行入室です)
 久しぶりに見る手術室の無影燈。いよいよ始まるんだなぁといささか興奮しているうちに準備は進み、導入麻酔の最後の1滴が入った4秒後にはドロドロドロと天井が熔けて、目標10秒!の願いはあっけなく崩れてしまいました。
 骨髄採取は腸骨上部4ヶ所より骨の髄へ都合90回針を刺し、細胞密度が高かったので予定より少ない650mlの採取で終了。ちなみに採取担当医は亡くなった友人の主治医だったKドクター。
 病室にはお昼前に戻り、麻酔は覚めているのに朝飲んだ眠剤がまだまだ残存していて結局夕ご飯までご就寝。しかし今度は9時の消灯時間が来ても眠れず、やがて0時になり、3時になり、気が付けば朝まで一睡もできませんでした。
 でも、この眠ることができなかった時間に感じた腰の採取部位の痛み、熱いというか存在感があるというか、色々な実感の伴う痛みは忘れることができません。というのは嘘です。実は今ではもう忘れてしまったのですが、その時に感じ考えたことは忘れられません。
 誤解を恐れず、うぬぼれを多分に含んで言えば、わたしの骨髄が一人の患者さんの元に届けられ、少なくとも今を生きる希望の一滴にはなったのではないかと思い、それはわたしという人間が存在したから成し得たことで、それはわたしという人間が存在を許されたと思ってもいいのではないか、と思ったのです。何かとんでもなく難しそうなことを考えていたわけですが、わたしの育った家庭環境がそう思わせたのでした。ここでその説明は割愛しますが。
 提供後は翌々日に退院し、すぐに職場には復帰しました。
 復帰後すぐ、わたしは社長に挨拶に行きました。提供による休みを快く許してくれた会社と社長に「ありがとうございます」の気持ちを伝えるためでしたが、逆に社長から「ありがとう」と言われました。自分達ができないことをやってくれてありがとうという意味だそうです。これにはこちらが恐縮してしまいました。

 わたしは、骨髄提供はやったけれども、ボランティア活動をやろうとは全く思っていませんでした。提供は個人の責任の内でやれるけれども、ボランティアは少なからず他に対し自分達の思いを伝えなければならない。それがイヤでした。
 だからボランティアの手伝いをしてくれないかと言われたときにはためらいましたが、 結局わたしはボランティア活動を始めました。そう思うに至った理由は色々ありますが、この活動によってたくさんの篤い人にお会いでき、活動にとらわれない広い意味での勉強ができることに本当に感謝しています。

 わたしが骨髄を提供させて頂いた元患者さんは元気でしょうか?
 提供間もない頃は「できれば会いたい」と思っていましたが、いまはきっと元気に自分の人生を謳歌していると信じています。もちろん、現システムでは相手を特定することも、ましてやお会いすることもできないのですが、どこの誰とは分からないけれど、きっとわたしと同じ血液が流れている元患者さんは元気で、だからわたしも負けずに頑張ろうと思います。
 もしも、システムが変り元患者さんも会いたいと願ってくれるのだとしたら、その時は「送り手」「受け手」ではなく、兄弟として会えたらいいなぁと思います。

 ちなみに、わたしが骨髄バンクにドナー登録した当時は、まず骨髄移植推進財団へ1度ハガキを出し、その後に骨髄データセンターと登録予定日を決めた後にHLAの検査ができるというシステムでした。しかもこれは1次検査と言われるもので、この後に2次検査があったのですから、今のようにハガキ送付もなし、運がよければ偶然見かけた献血バスで献血協力のついでにドナー登録もできてしまうという簡単さが夢のようですし、現在は1次検査と2次検査が統合されたので検査のために仕事を休む不便さも軽減されたわけです。
 こうなれば、全ての献血会場で骨髄データセンター主導のもとドナー登録ができる日も近いのかな?と、最後にそんな熱望を記します。笑